昭和50年3月17日 朝の御理解
中村良一
御理解 第93節
「氏子は神の守をしておる者を神と心得て参詣する。守が留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことは出来ぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」
これは、お取次ぎをさせて頂く者に対する御理解だと思います。けれども、御道の信心をさせて頂いて、真実、おかげを頂きたいと思うなら、この心掛け、この信心がなされ、身に付かなければ、本当のおかげは受けられないと思います。本当のおかげというものは、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようなと、ね。いわば、この方の道は傘一本で開ける道という様に、本当に、この信心、この安心のおかげを頂いておれば、道が開けるというほどしの、言うなら信心。そういう信心を身に付けるという事は、やはりここに、いわば取次ぎ者、教師に対する御理解を下さってある訳ですけれども、この様な心掛け、心の状態がなからなければ、おかげは受けられないと思いますね。
昨日の総会で、総代の高芝さんが話しておられました。本当に、いうなら、面白う、可笑しゅう、かいじゃく交えてのお話で、みんな、身につまされただろうとこう思うです。私は、いうならば、合楽でご信心を頂いて、おかげを受けておるという人達の場合は、先ず、あれが、まぁあれだけの事が出来るという事が、まぁ合楽で言う、良い信者と言えると思うですね。ほんなら、高芝さんなんかは、もう、何十年と信心をなさっておられて、もう次々と、まぁ言うならば、親先生任せになってさえおれば、おかげが受けられるという、その信心をです、身を持っていただき、または、それを現し、おかげを受けて来ておられます。ね。それでいて、例えば、親先生の、一分一厘間違いのない、親先生のお取次ぎを頂いたら、間違いがないと、ね。改めて分からせて頂いたと言っておられます。ほんなら、また、おそらく、何かほんなら、問題が起きてきたら、やっぱり、同じような事じゃないでしょうか。その場に立ったら、あ、親先生が、右と仰るから安心。なるほど、安心しておる様であるけれども、その自体が、少し、こうやって、その困った事やら、難儀なことに変わってまいりますと、それこそ、自分でも言っておられた様に、それこそ、立ったり、しゃごうだり、じっとしておられん、落ち着いちゃおられん。親先生は、ああ言われるけれども、まぁ家内子供には、親先生が言いよりなさるとじゃから間違いないと言いながら、自分自身も、いたり来たりしよったというふうな、赤裸々なお話でしたよね。
だから、あの、あれだけの、例えば、曲りなりにでも、親先生任せにならせて頂いて、度々、あれだけのおかげを受けておられるのであるから。もういい加減、いうならば、安心のおかげというか、ね。お取次ぎを頂いての事だから。右になろうが左になろうが、もう、そのところが、おかげぞと分からせて頂くという事だけれども。私は、昨日、高芝さんのお話を頂いて、本当に赤裸々だったと思うですね。実際、お互い、銘々の信心を厳密に言うたら、まぁそうじゃないでしょうか。もし、そうでなくてです、ね。本当に、親先生が、例えば、まぁ行かんでも良いと。とても行かにゃおれない様な状態の中に、行かんでも良いと言われたから、行かんですんではおるけれども、その心の、心の状態たるや、それこそ、じっとしちゃおられん。立ったりしゃごうだりしておったと、こう言うておられる様にです。ね。けども、あそこでです。何を言いよるかと、親先生にお取次ぎを頂いての事じゃないかと。右になろうが、左になろうが、ね。何のため、日頃、信心稽古をしておるかと、自分も落ち着き、お父さんが、ああ言いなさるから、ね。家内も子供も、落ち着いとったと言えれるようなおかげを頂いておるならばです。もうその人は、私は、プロ級だと思うですね。もう金光様の先生になっても良いと思うですね。本当に、お取次ぎが出来る人と思うですね。
してみると、合楽では、本当に皆さん、おかげ頂いておる。こうして、日々の御理解を頂かせて貰いながらね。ただ、普通、御取次ぎを頂いて、おかげを頂くという程度の人で、合楽のお話が分からんというのが当たり前。合楽では、どこまでも、おかげを頂くのではない。信心を頂くといったような事ですからね。
昨日の御理解ではないですけれども、総会の後に、皆さんに聞いて頂いたお話ですね。ここの座敷におる人で、歌を歌わない人は、声の自慢か傘かきかという事を頂いた。もう、このくらい、私は、言うならば、辛辣な御理解はなかったと思うですね、最後まで。塗板に書き出してある、ここ合楽に、来らせて頂いての、年々のお下がりが、すっと数字的に出ておった。あの数字をさして、ね。これだけ、合楽では、おかげを年々に、それこそ、うなぎ上りに、おかげを頂いてきておる。まぁ私は、それを思うたんですけれども。さすがに合楽だなと思うことはね。あれを平気で、信者の前にですね。あの公表出来るなんて、全国で、どこもないでしょうね。お下がりの実情、実態をですね。言うならば、もう総会ですから、もう言うならば、ピンからキリまでの方達が見えとる前でですね。あれを、例えばあの、公表出来るなんてね、それは、なるほど、教会に借金を持っておる時にはです、ね。教会に、今、こんなに借金もあるんだと。みんなちった、頑張って下さらなきゃ出来んよという意味で、そら、いう事があるかも知れんけれどもですね。そうではない。反対の実情をですね。あんなに、私共は、聞いた事も見た事もない。大胆といや大胆。まぁ本当に、ガラス張りの教会といやガラス張りの教会という事を思うたですね。しかも、その数字を指しながら、皆さんに聞いて頂いた事はです。こういう風に、段々、年々歳々、まぁ驚異的なね。まぁ普通、びっくりするような、うなぎ上り的な上昇一途を辿っておる、ほんなら、経費のことを、あんなに、つまびらかにです。みんなの前に、説明が出来る。それを指しながら、ほんなら、あなた方の、例えば、お供えならお供えがです。あぁ、なるほど、私達が、もう倍ずつも、または、その都度都度にです、ね。以前は、例えば、百円お供えしよったのが、二百円お供えする様になった。千円お供えしよった者が、二千円お供えが出来るようになった。だから、この様な塗板に、数字が現れておると言うのではなくて。あなた方は、実際は出来ていないのだろうがと。それでいて、これだけのおかげを頂いておるという事は、その御神意の云々という事を、私は皆さんに聞いて頂いたですよね。
これは、私は思うのにです。本当に、例えば、この九十三節に、御道の教師に対するところの、言うならば、厳しい、いわば、教えを、ここになさっておられます。ね。常平生に、上下をつけておれと言うような、ね。または、神の前を空けておくことは出来んぞと。もう一時だって、油断も隙もあるもんじゃないぞという事を言っておられるのですよ。それを、合楽では、一般信者の方に聞いて頂いておるという事です。ね。だから、それをそれとして、本当に、受けて立たれる信心をなさる方があるならね。もうその人は、もうプロ級です。教師の資格を、もうその人の信心によって、人が助かるです。ところが、合楽の場合は、そういう人をです。いわば、合楽では、求め給うておると思うんです、神様は。ね。
例えば、問題があるたんべんに、御取次ぎを頂いて、おかげを頂く。本当に間違いない、親先生の仰ることは間違いない。おかげで、この度の、例えば、事柄で、ね。子供達も、娘婿達までも、親先生の言われることは間違いない。もう僕は、金光様の信心から動かんという様な事を、子供達が言うほどしのおかげを頂いたと言うてもです。ほんなら、肝心要の、中心の高芝さんの信心が、それでも、やはり立ったり、しゃごうだりしておったち。もし、それが無くてです。もうそれこそ、ままよと、ままよとは、死んでもままよのことぞと。親先生の御取次ぎを頂いての事ではないかと。ばたばたするなと言える様なものを頂いておると言うならばです。例えば、今日の、九十三節のようなところを、常日頃に、信心の、先ずは出来ておる方達だと思うです。でなかったら生まれはしませんです、そんな心は。高芝さんの、言うなら、あのお話を頂いて、あれが、合楽での信者としてなら、まぁ最高の信心です。
けれども、ほんなら、本当の意味において、示現活動でもさせて頂こうかと言うほどしの、ほんなら、信心を目指すならばです。ね。実際問題としてです。立ったり、しゃごうだりしとらねばならんという様な事では、日頃の信心の、ほんなら、しかも、ね。二十何年間、稽古をさせて頂きながらです。しかも、どういう問題の場合であっても、親先生が見事仰ら右。左と仰ら左の道を辿って来たという人は、沢山ありますけれども、それであれば、落ち着いておって良い。安心しとって良いという様なおかげを頂くという事は、ね。容易ならないことだ。
二三日前から、若先生を例にしてから、聞いて頂いたお話のように、ね。死んでおるのと、死んだ気でと言うのは違うぞという様な御理解を頂いたんですけども。もう、こんなに厳しい、私は、あの表現というか、教え方があろうかと思うくらいです。ね。
例えば、神の前を空けておくことは出来んぞと。ほんなら、終日、御神前御用奉仕が出来れるという事。とてもとても、ね。ただ普通で出来ることじゃないです。それはもう、本当に、心がうかうかしておるなら、一時間だって座られないです。まぁだ、代わりが来んじゃろうかと思って、もうそれこそ、ね。本当に、誰かが言ったと言う、御結界に奉仕をするという事は、また、御道の先生と言うのは、本当な事を守らせて頂くなら。もうそれは、懲役に行っとるのと同じだと言っております。神様が、畳半畳のままで良い。御結界奉仕を怠るなよと。ここを空けておくことは、信者が参ってきて、もし、御結界に人がいないと、もう神様がござらんじゃったという様な気持ちで、信者は帰るぞと。ここを空けてはならないぞと。だから、空けてはならないから、空けないことなんていう事は、とても出来ないことです。ね。ですから、ほんなら、それが有難い、それが好きになってこそ、初めて出来ることです。と言うことは、自分の心の中に、喜びが広がってくる。それこそ、どういう場合であっても、微動だもせんですむ様な安心の心が頂けてくる。そういう信心をしなければ、そういうおかげは受けられないほどしのおかげが、心に備わってくるから、神前奉仕が出来るのです。座らんならんから座っとると言った様な事で、出来るはずはないのです。だから、ほんなら、若い、言うなら、先生方に、ほんなら、今の家の若先生辺りがです。そういうものが、心の中に頂けておる筈は無いです。
まぁ私共は、六十幾つにもならせて頂いて、まぁ要約、その真似方が出来よるくらいなことですから。ね。四時の御祈念を奉仕する。私が、四時半に下がる。若先生が御結界の奉仕をする。私が、四時半に下がったけれども。若先生が出て来とらんから、どうしとるかと言うたら、お客さんがあっとるからとこう言う。そしたら、神様はね、その事を、私がお届けさせて頂いたら、心が死んでおると頂いた。心が死んでおるから、ね。例えば、自分の受け持ちの時間に座られない様な事になるんだ。また自分の受け持ちの時間に、いうなら、人が来とるからと言う。それに便乗して、もうここを、サボろうとしておる心は、もう信心、神様へ向かう心というものが死んでおるからだと。厳しいでしょう。ね。
若先生が、まぁだ、まぁだ小学校の時でしたね。おかげを頂いて、御結界の奉仕を一時間ずつ、学校から帰ってさせて貰う。ある時に、山本に叔母がおりますが、あちらへ、まぁお使いか、遊びかに行ったんでしょう。それで、勝彦ちゃん、今日は泊まっていかんのち言うちから言うた。そしたら、僕は御結界があるから帰るち言うた。まぁ本当に、勝彦ちゃんな、もう本当、もうそら本当言うならば、良か先生にならっしゃるばいと言うて、叔母が言うた事がありました。ちょうど、御結界の奉仕をする、一時間の時間の頃に、すぐ横の道に、もう直ぐ、教会の横の道の所に、紙芝居が来よった。はぁ拍子木で、カチカチ鳴り出すと、御結界座っとるとがもう、どんこん、嫌でいやでたまらん。ね。泣き出しよった。ね。それでも、一生懸命、あのやっぱ、辛抱させて頂いた。なに泣くかいち。うんにゃ、僕はね、立ち上がろうごたるけんで泣きよるとじゃないて。小便に行こうごたるけん泣きよるとち。そしてもう、あちらの御結界の机がですね。その時分の、あの左の御結界にあったものですけれども。ここんところに、もう鉛筆の芯ば、こうこやって突き立てとるです。もう代わりで、ちょっと遅そかと、もう、もやもやする訳ですよね。それはね、子供だけじゃありません。大人でも、そげんあるです、本当。ここに、座らんならんから座っとるなら。ね。ちょいと代わりが遅かなら、呼びやろうごたるです。ね。それから、ほんなら、ね。もう何年になりましょうか。もうやんがて、小二十年になるでしょう。そげなならん。そら十何年になりますでしょう。それでいたっちゃです。例えば、ほんなら、四時から、ここに奉仕をしなければならない。人が来る。もうそれに便乗して、まぁ言うならば、よか幸いで、座らんで良かほうがです。口実がついとる、ちゃんと。ちょっと人が、お客さんが見えとる。ね。そういう時にです。いや僕は御結界の奉仕があるからと言うて、座れれるだけの信心。それが、心が生きておる時でなからなけりゃ出来ないという事です。
例えば、これは、皆さんの上で言うならばです、ね。ちょうど、お参りしようと思いよったら、お客さんが見えて、昨日はご無礼しました。それで、立派に口実は付くです。けれども、それは、あんたの心が死んでおるから、そういう事にもなるのだという事なんです。ね。だから、その前には、死んだ気でという御理解を頂いておったが。死んだ気でという事と、心が死んどるという事、神様へ向う心が死んでおるという事は違うんだ。ね。だから、いうなら、きつかろうけれども、一つ、死んだ気で頑張ってくれよというのが、私はこの、九十三節だと思うです。ね。ですから、今、合楽で言われておるようなところを、本気で、言うならば、信心の、それを稽古の対象としてです。自分の心が、これは自分の心が、もう半死半生だと。ね。
昨日、最後に、繁雄さんの挨拶があって、本当に感心しました。昨日は、そういう厳しい御理解を頂いてから、まぁ感じ付きなさったんじゃろうと思うけれども。ね。例えば、枯れかかった野菜に、今日は、お水を与えて頂いたような気がしたという意味の話をなさっておられましたですね。それは、どうかと言うと、ね。半死半生の心がです。言うならば、ね。生き生きとしてくる。神様へ向う生きた心が生まれてくるとこう言うのです。だから、普通一般の、ただ、おかげだけで良いならばです。もうとにかく、合楽の、例えば、昨日、百名なら百名の信者が集まっておったが。もう、あれで十分です。ね。さぁ何かある時には、親先生任せになっときゃよか。ね。それでもやっぱり、居ても立ってもおられない様な心の状態だったと。まぁ何かの時には、そうで良いならば、もうこれで結構です。十分、おかげは受けられるです。ね。けれども、本当に、信心が有り難うなり、楽しゅうなり、ね。どのような場合であっても、それを、傘一本で、受けて行けれるような、私は、心の状態を願い求めてからの信心であるならばです。ね。やっぱり、合楽で最近、特に二三日頂いておるような、厳しい、言うならば、自己反省もなされなければならない。次の、やはり精進もなされなければならないというのです。ね。とにかく、私は、そういう切実な信心というものはです。自分自身を、いよいよ、分からせて頂く以外にはないと思います。ね。
例えば、昨日のお話の中にも申しました様に、ね。自分な毎日日参が出来ておる。御用も、どんどん出来ておる。だから、今日の先生の御理解を頂きながらです。ね。それこそ、声の自慢か傘かきかという。いわば、優等生と劣等性が、今日は、半分半分だという様な意味の事を申しましたが、自分こそ優等生だと。はぁ合楽では、まぁ自分どんが、優等生じゃろうと思うた人は、先ずは、劣等性なんです。それだけの事が出来ておりながら。話を聞けば聞くほどに、ほんなごて、親先生が言いなさる通り、私こそ劣等生だという心が起こったら、あなたは優等生です、合楽では。これは、私自身が、だから、昨日の話は、私を含めてのことですよ。ほんなら、私が、今もここで申します様に、神前奉仕なら神前奉仕が有難く出来るようになって、段々、おかげを頂いておってもです。私の心の中にはです。もう本当に、私ぐらいな者ば、よう神様がお使い廻しを頂いて、ね。それこそ、われ、屑のこの自覚に立たせて頂いての日々なんです。親先生は、優等生の、まいっちょ、上の優等生だろうと言う様に、いう人、思う人があるかも知れんけれども、実際は、私こそ、劣等性なんです。ね。ですから、ほんなら、昨日の御理解頂いて、ははぁ、自分はまぁ合楽では、優等生のほうの部のほうに入るとじゃろうと、ほんなら、日参り、夜参り出来ておる人が、もし、そう思うたんならです。その人は、まぁだまぁだ、劣等性なんです。ね。けれども、言われる通りに、私こそ劣等生だ、神様の一番のご厄介者だと言う様な、私は、実感というものが出来てこそです。ね。初めて、それこそ、すがらなければおられない。神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。何も出来ない私だからと言う。いわば、本気な信心が出来るのです。そういう信心が出来てこそ、初めて、信心は、楽しゅうもなりゃ、有り難うもなりゃ、ね。それこそ、これを御道の教師で言うならばです。とてもとても、御結界ども空けておる様な事は、勿体のうして出来ないほどしの事になって来るのです。ね。そこから生まれて来るのがです。信心の喜び、いや、言うならば、どん腹が出来てくる。どんな場合であっても、ままよという腹が据わる。言うならば、安心のみかげを、ひたすら、いよいよ、大安心のおかげへ進んで行けれる信心者だという事が言えるのです。ね。
ですから、言うなら、ね。合楽ではね、もう、今、よく全教の上に言われる言葉の中に、信奉者全部が取次ぎ者と言われております。御道の信心させていただく者、全部がもう、取次ぎ者の自覚に立てと言われております。けども、これは本当に、言葉だけの事であってです。取次ぎ者というものは、今日、私が申しますような精神に立たなければ、お取次ぎ者としての値打ちはありません。それを、ここでは、信者、一人ひとりに、そうあれ、あってくれよと、神様は言っておられるような気が致します。何故って、それは、合楽示現活動に参画して貰わなければならないからであります。だから、皆さんは、言うならば、プロ級の、言うならば、信心教育を受けておられるという自負を持ってです。本気で、ね。信心を、神様を頂いていかなければならんと思います。どうぞ。